
J.K.ローリングが指摘したトランスジェンダー問題について、エマ・ワトソンたちが反発をして対立。
ハリー・ポッターの物語の著者J.K.ローリング。全世界で大ヒットとなったその物語は映画化されて、そのヒロインに抜擢されたのがエマ・ワトソン。
それ以来、重ねてきた友好がトランスジェンダー問題で対立へ。
その後、エマ・ワトソンの態度の問題に発展。
経緯や背景、最近の状況を事実に基づいてまとめました。
和解の可能性は?ないです。
JKローリングのトランスジェンダーについての指摘
ローリングが問題視される発端は2018年頃のSNS投稿で、トランスジェンダー女性を「ドレスを着た男性」と表現したツイートにいいねをしたことが発端。
2019年に「トランスジェンダー批判的な見解(生物学的性別は現実であり不変であるという見解)」の内容のツイートをしたために解雇された研究者マヤ・フォーステイター氏を擁護するものでした。
2020年6月には「月経のある人々」という言い回しに対し、「女性を抹消している」とツイートしたことが大きな批判を浴びました。
「性別は生物学的現実であり、それを軽視すると女性の権利や安全が損なわれる」と指摘。
トランスジェンダーの人々の尊厳を認めつつも、法的な性別自己認識の簡素化や女性専用空間への制限なきアクセスには反対し、女性のシングルセックス空間を守ることが解決策だと主張しています。
映画キャストとの関係と対立
JKローリングの発言に対し、エマ・ワトソンやダニエル・ラドクリフ、ルパート・グリントなど映画の主要キャストはトランスジェンダーの権利を支持。
両者の間には明確な意見の溝が生じます。
エマは自身のSNSで、「トランスの人々は自らのアイデンティティを否定されることなく生きる権利がある」と表明し、ローリングの発言に反発します。
世論の移り変わり
2020年前後当初は批判の嵐を浴びて、JKローリングはほぼ孤立状態に。
しかし、2023年には、マヤ・フォーステイター氏は英国の2010年平等法において保護される「信条」であるとされて、解雇した元雇用主に対しての裁判で勝利。
2025年時点では、英国を中心にローリングの意見に理解を示す声も増加しています。
とくに未成年者の性別適合医療に関する医療報告(キャス・レポート)を根拠に、性自認よりも生物学的性別の尊重を重視する政策や判決が注目されています。
ローリングは2025年にも「もっと早く声を上げるべきだった」と述べており、社会議論に積極的に関与。
賛否両論の論争は現在も続いています。
最近のエマ・ワトソンとJKローリングの動向
エマ・ワトソンは、女優業のかたわらで、女性の権利擁護や社会的活動にも積極的に関わり、国連ウィメンの親善大使も担当。
近年は女優業から距離を置き、オックスフォード大学でクリエイティブ・ライティングの修士課程で勉強中。
世論がJKローリングの主張に傾きかけた2025年9月に、エマ・ワトソンはジェイ・シェティのポッドキャストに出演。
JKローリングについて「意見は違っても彼女を大切に思い続ける」と和解の可能性も示唆します。
JKローリングは2025年9月、エマ・ワトソンのこのインタビューに関するのものまねパロディ動画をリポストして、「全てのパロディを歓迎する」と嘲笑しました。
この言動は両者の複雑な関係を象徴していて、和解は遠い状況にあるとみられています。
その後、JKローリングが改めて反撃。
「彼女(エマ・ワトソン)は自分が無知であることが無知」としている。(下部に全メッセージの引用翻訳あり)
【JKローリングのエマ・ワトソンに対する反撃】
この件について多くのコメントを目にしているので、いくつかの点を述べておきたいと思います。
私は、自分が創作したキャラクターを演じた俳優が、永遠に私と同じ意見を持ち続ける義理があるなどとはまったく思っていません。そんな考えは、私が二十一歳のときの上司に「今、自分がどんな意見を持つべきか」確認するようなものです。
エマ・ワトソンや共演者たちには、ジェンダー・アイデンティティをめぐる思想を支持する権利があります。そのような信念は法的に保護されていますし、私も彼らが仕事を失ったり、暴力や死の脅迫を受けたりすることは望んでいません。
しかし、特にエマとダンはここ数年、自分たちがかつて私と一緒に仕事をしたという事実が、私や私の考えを公に批判する特別な権利――いや、むしろ義務――を与えるものだと考えているようです。彼らが『ハリー・ポッター』の撮影を終えて何年もたった今でも、彼らは私が作り出した世界の事実上の代弁者のつもりでいるように見えます。
10歳のころから知っている人々に対しては、どうしてもある種の保護本能が抜けないものです。ごく最近まで、私は彼らが大きくて怖い映画スタジオで台詞を優しく導かれていた子供だった頃の記憶を引きずっていました。ここ数年、私はジャーナリストからエマについてコメントを求められるたびに断ってきました。特に『The Witch Trials of JK Rowling(J.K.ローリングの魔女裁判)』に関して彼女について話すのは避けました。皮肉なことに、そのとき私は制作陣に「自分の発言が原因で彼女が非難を浴びるようなことは望まない」と伝えたのです。
添付された映像の司会者は、エマの「全ての女性は魔女だ」というスピーチを取り上げています。実際、それが私にとって転機となった出来事でしたが、より深く傷つけたのはその後の出来事でした。エマは私に手書きの短いメモを誰かを通じて渡しました。そのメモには「あなたがこんな目に遭っていることを本当に残念に思います」とだけ書かれていました(私の電話番号を彼女は知っています)。当時、私は殺害・レイプ・拷問の脅迫を大量に受けており、警備体制を大幅に強化せざるを得ず、家族の安全にも常に不安を抱えていました。そんな中、エマは公の場で火に油を注ぐような発言をしながらも、その一行だけの同情の言葉で私を安心させたかったようです。
裕福と名声に守られた人生しか知らない人々と同様に、エマは「自分がどれほど無知であるか」という事実すら知らないほど現実の生活経験が乏しいのです。彼女がホームレス・シェルターに行く必要もなければ、公立病院の男女混合病棟に入れられることもありません。子供の頃以来、一般的な商店街の試着室を使ったこともないでしょう。彼女の「公共トイレ」は個室で、外には警備員が立っています。市営のプールで男女共用の更衣室に入らなければならないことがあるでしょうか。女性専用サービスを保証しない国立のレイプ被害者支援センターを利用せざるを得ないことがあるでしょうか。あるいは、女性刑務所に「自己認識が女性」と称して入ってきた男性の性犯罪者と同じ房で過ごすことがあるでしょうか。
私は十四歳のときに大金持ちではありませんでした。エマを有名にした小説を書いている間、私は貧しい生活を送っていました。だからこそ、エマが積極的に加担してきた「女性の権利の切り捨て」が、彼女のような特権を持たない女性や少女にとってどれほど深刻な意味を持つか、私は自分の人生経験から理解しています。
ここで最も皮肉なのは、エマが最近のインタビューで「私は彼女を愛していて、大切に思っている」と発言しなければ、私がこれほど率直に語ることもなかったかもしれないという点です。おそらく彼女は、私を全面的に非難することがもはや以前ほど流行していないと気づいて、方針を変えたのだと思います。
大人は、友人の暗殺を日常的に呼びかけるような活動家運動に親しげに寄り添い、そのうえで「その元友人の愛情を得る権利がある」と主張することはできません。まるで相手が自分の母親であるかのように。エマが私と意見を異にする自由を持ち、公の場で私について語る自由を持っているのは当然です――しかし、私にも同じ権利があります。そして、私はようやくその権利を行使することにしたのです。